読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

じぎょメモ

都内某社でデジタルマーケティングとか社内ライターとかしてがんばっている。勉強中で日頃気になったアレコレをまとめます。気持ちアドテク多めな気持ち。

難しさにまつわるいろいろと、他人から簡単に評価されるには。

難しさにまつわるいろいろ、について。それは同時に「すごさに関するいろいろ」でもあると思うのだけど。

 

セルフエスティームというとカッコいいですよね。

自分への見積もりが(自己評価)がへたくそなひとはいます。

そういう人は大体「へたくそ」と言われて割とへこんじゃうタイプに綺麗に外部の物事を受け取れる人です。

 

自分に対し、そして時には他人に対し「どうしてこんな簡単なことが出来ないのだろうか」と思うことは、人生生きていれば数多遭遇するわけですけれども、それに対して一喜一憂する前にも、深呼吸していかに受け止めるかを分析してみるのは正しいと思います。

 

等倍で受け取っていいショックと、割増ないしは割引して受け止めるべきショックがあります。それは毎度毎度自分や当事者のせいであるとは限りません。

世の中、時の運や気まぐれで左右されることもあるわけです。いきなり法律で禁止されるかもしれませんし、太陽が爆発して明日地球がなくなるかもしれません。絶対に勝てないと設定されたボス戦は、いかにレベルを上げていこうと、エリクサーを注ぎ込もうと、勝てないのです。そういう運命みたいなものと戦い始めると、いよいよ人間の精神は疲弊していくのでしょう。しかもそういうときに仮に勝てたとしても、不思議と無理した分ほどのリターンは戻ってこなかったりします。ふしぎです。

 

同じことを同じ環境でしていても、外部からの評価が異なるケースもあります。

 

「女子大生が夜はキャバクラで働く」も、「キャバ嬢が昼間は大学に通って勉強している」も、起こってる事象は同じなのに、なんか後者を応援したくなるのは人間の性なのです。右肩あがりのギャップや意外性に弱い、ヤンキーが更正したら応援したい。イケメンがかわいいもの好きだったら萌える。仕方ない観測性質なのです。

 

同時に、ギャップという評価スコアを最大化できるのは「簡単なことを難しく見せて成功させる人間」であるし、一方で最もそういった空虚かつお得感のある人間特有の評価基準をもったいなく扱うのは「簡単に見せて、結果的に失敗する人間」であると思うのです。

 やってること自体が難しい場合と、やってること自体は簡単なのに、それをさせる環境が難しかったりする場合がある。そうしたときに、事象の認識、この場合は自分の実力値だったり、他人のそれを間違って見立ててしまうのはよくないなあ、とふと思ったわけでした。

 

逆に、いやらしい話、この辺の「見え方」的なものを上手に使うと、「効率よく評価される」わけであります。全ては費用対効果。投資したリソースに対して、効果を最大化させる、そのギャップが利益なわけですね。

 

 

話はズレましたが見積もりというのはある目的となる意思決定のための手段です。

高くするのでもなく、低くするでもなく、あくまでその精度に価値が生まれます。その見積もりがはじき出した結果が良いとか悪いとか、そういうのはまた別の話です。そこを見た目よく調節すること自体は可能ですが、精度の低い見積もりで誰が幸せになるでしょう。

そうなったとき、急いで見誤ることががもっとも回避すべきリスクであるわけですね。

 

また「一理ある」という選択や判断は中学校まである程度それなりに勉強して出ていれば誰しもが出来ますし、社会に出てからは「そこは出来ておけよ」、となるケースが多いです。議論や意見交換、ディスカッションという生産は、その「一理ある」をブラッシュアップするために行うわけです。ぶつかりあって、どちらかのロジックが勝利し、そうでないものがボツになる。それが「何かを良くすること」なのです。生産的苦痛、それでもボツにする前に比べて、改善がなされたのです。いいものがボツにいなったのだとしたら、それはもっといいものが採用されたからでしょう。喜ぶべきです。

 

そこには参加しておきたいですよね。そのための見立て力は、形はどうであれ、ほどほどに鍛錬しておきたいものです。

 

 

 

時々「なんのために勉強するのか」というテーマにぶつかることがありますが、上記したあれこれは、結構大きな比率を占めているのではないでしょうか。

 

「見立ての精度を高め、豊かで居られるような意思決定を確実にこなしていくため」というのが勉強することの個人的な理由のひとつです。

 

 

なんつってて。