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じぎょメモ

都内某社でデジタルマーケティングとか社内ライターとかしてがんばっている。勉強中で日頃気になったアレコレをまとめます。気持ちアドテク多めな気持ち。

【学生時代のブログから再掲】2009年のデジタルネイティブ論を2012年に読んだものを2016年にまた再考してみる件

 

なんかすんごい身近に感じる論調と文章だなあと思って読み進めていたら、なんと2012年の自分が書いた記事だった、ということがあって。それはまぁそうでしょうな。と思った次第。

んで、それをまた久々に考え直してみようか、と思ってポストする。

か、勘違いしないでよね、文章一から書くのがめんどくさいとかじゃないんだからね!!!

 

※時間がない人は、がーーって下にやると今の高橋観で追記があるのでそれだけ読んだらいいんじゃないかしら。(目的不明)

 

というわけでいきなりだけど、以下転載―――――――――――――

 

デジタルネイティブの時代

デジタルネイティブの時代

 

 


ブックオフでチラッと目に入った、買ってみた。そして読んでみた。どうやらデジタルネイティブなるものがついに社会に進出し、ノンネイティブである筆者はじめ昭和生まれの人々は不安になっているらしい。この本はそういったノンネイティブな人たち向けの書籍みたいだった。

筆者は冒頭からデジタルネイティブとそうでない者を平成生まれか昭和生まれかという基準で分けている。もちろん定義は広く知られている「物心がついた時にインターネットが身の回りにあったか否か」というものなのだけれど。個人的にはぶっちゃけ情報環境なんて家庭次第でもあるし、自分もギリギリ昭和生まれ世代なのだが実家(群馬県の片田舎)の方を見て平成生まれの知り合いが皆デジタルネイティブかといえばこれにはNOと言わざるを得ない。この本が書かれた2009年ではもちろん、アップルiPhoneGoogleAndroid搭載機種が都心部で急増してきた現在ですらスマートフォンの普及率が高いとは言えない。みんなまだ「ぱかぱかするもしもし」を愛用中である。
これにはCGMによるコンテンツ不足や情報サービス環境の未成熟といった側面がちゃんとあって、「群馬が未だに狩猟採集生活を営んでいて、画面を衝撃から守るため」とかいうハナシではない。

とにかくインターネットに疎い層というのは平成生まれにも存在する。そんな気がする。もちろんゼロ年代生まれ、みたいに情報社会の成熟が進んだ今ではまた事情も変わってくると思うけれど。
そして、昨今実際に言われている「デジタルネイティブ」とは、割と物心がついた頃からパソコンやインターネットに触れて育ち現在もスマホやらタブレットやらに指を滑らせている自分とも異なったメディア感覚を持っているんじゃないかと最近思えるのである。



とにかく平成生まれをデジタルネイティブとする分類法にちょろっと疑念を持ちながらも読み進めていく。

2006年、1984年に昭和生まれの人口が1億人を超えて以来、初めて「昭和生まれ人口が一億人を割る」。この年は奇しくもジョージ=オーウェル情報統制が敷かれ、個人が消滅する中央集権的未来を予想した1984年であり、同時にそれをアップルコンピュータ社がMACKINTOSHで打ち破ったあの1984年である。
そしてちょうど昨年の2011年には、「平成生まれの新社会人(大卒者)がデビューする」年であった。
なぜ筆者がここまで昭和世代と平成世代に戦を引きたがるのかはわからないけど、そういう背景がここ数年にちょうどあった。


「革命とは時間の短縮であり、空間の超越である」なんてことも言いながら、インターネットの出現について「コミュニケーションの革命」であるとする。
たしかにインターネットコミュニケーションメディアとして時間的空間的制約から大きく解放されている。殊にモバイルインターネットといわれている領域であれば、デバイスの携帯性もあって「いつでも・どこでも・だれとでも」を体現している。
しかしながらこの空間的時間的制約からの解放は同時に「常時接続性」を孕んでいて、良くも悪くもこれがコミュニケーションに大きな変化をもたらしたりもした。

デジタルネイティブ論やデジタル・ディバイド論でまず語られるのが3歳くらいの子供のお話。今回も例に漏れず筆者の息子さん(3歳)がインターネットに夢中になるおはなしがあった。
幼児期の情報接触やメディア接触についてはむしろ教育論から語ったほうがよさそうだし、個人的にそっちには詳しくないのでなんともいえない。
小さな頃からインターネットに触れ、検索やハイパーリンク、シークバーといった概念を「普通」にしておいたほうがデジタルネイティブとして合理的で時代に合った人間に成長するのか。それとも「いつでも・どこでも・だれとでも」「なんにでも・クリックひとつで」なんていう全能感を何も知らないうちから与えてしまうと苦労のできない神さまごっこで傲る人間に育つのか。その答えは持ち合わせていない。
それでもやはり小さな子供がインターネットに触れる機会は確実にあって、それが与える影響もあるのだろう。
筆者はどちらかと言うとこれに警鐘を鳴らすタイプであった(というか本書のいたるところからアンチデジタルネイティブ臭はするんだけど)。

まぁでもこの問題に関しては自分も同感である。
というのも、検索というのは「生産」活動ではない。動画画像の視聴も消費であって、娯楽にはいいかもしれないが生業にはならない。その判断がつかないうちは便利すぎて危ないだろうと感じる。インターネットの全能感はシゲキが強すぎるんじゃなかろうか。もうすぐ大学を卒業する自分ですら時々恐ろしくなる。
むしろインターネットよりはインターフェースに触れさせたい。というのはまた別のハナシ。


そういえば平成元年生まれ(89年生まれ)はちょうど小学校に入るか入らないかでWindows95、その4年後にiモード、また少し後にブロードバンドの普及が進み、多感な時期に3Gケータイが登場したりして、彼らを取り巻く情報環境コミュニケーション環境は大きな変化を遂げていたりしていた。確かにデジタルネイティブ第一世代とするには面白いのかもしれない。

機械好き、というかガジェットヲタな父のお陰様で自分は割と小さな頃からパソコンやインターネットには触れてきていた。もともと好奇心は旺盛な方で、中学生当時は途方もないくらい広大で深淵な情報の大海原に心底ハマったものだった。この頃のインターネットの使い方はおもにゲーム、当時はやっていた”おもしろ無料FLASH”の視聴、クラスメイトとのメール(当時は携帯電話を持っていなかった)などであった。しかし、ここでのインターネットの利用は高校進学以降のそれとは「時間の制約」という点で大きく異なる。
高校進学後はノートパソコンを一台買い与えられ、携帯電話も手に入れた。インターネットがついに自分の生活に入り込んできた瞬間だった。
この本での筆者の言葉を借りるとすれば「自分専用メディア」が登場したといえる。
プライベートで利用するパソコンによるインターネット、そしてモバイルケータイ)によるインターネットで、ついに自分の生活は常時接続された。
そこからはまさに「いつでも・どこでも・だれとでも」の世界であった。アドレスさえあればいくらでもメールでコミュニケーションが取れる。気になる情報にアクセスできる。両親からすればさぞかし不安だっただろう(一応見えないようにやっていたつもりであった)。

それほどに衝撃的であったインターネットショックは、当時(2005~2007)の自分の生活を大きく変えた。そしてその衝撃を大学進学後、ソーシャルメディアの台頭という形でもう一度味わうことになる。
そんなこんなで、ギリギリ昭和世代の自分もなかなかにデジタルネイティブじみた時代背景を歩んできたように思える。

ここで書籍の話に戻ると、この本はインターネットがなんだ、ケータイがなんだというハナシよりは、「ソレを使う若者について」みたいな論調である。
我ながら「ソレを使う若者」であって、読み進めていく中でかなりの違和を感じていたのだけれど、「ソレを使う若者」のことと同時に「ソレを使わない者について」もいろいろ知ることができた(それ自体はあまり役に立ちそうにはないのだけれど)。



ちょうど来月からモバイルソーシャルメディアに関わって広告という畑で仕事をすることになるのだが、むしろノンネイティブからの視点を学べたのはそれなりに意味があったのかもしれない。ぼくらにとってケータイは普通であって当たり前であって、「そうじゃない」ということを忘れがちでもある。最近新しくてクールで便利で素敵なサービスがPONPON出てくる。でも、それは全てではない。
モバイルを中心に面白いことをシカケていきたいので、もちろん「そうじゃない」ことだって知っておかねばならない。ちょっと背筋がシャキっとした。
なんだか読む前に考えていたことと内容はずいぶん違ったけど、かなり易しく復習できたのでまぁよしとするか。


いま現在インターネットに居て感じるのは、「ここに書かれているのはあくまでデジタルネイティブ第一世代」ということ。下手したらプロトタイプかもしれない。試作品。
現役の女子高生なんかに話を聞いてみると、ぼくら(大学生)とはまた違った使い方・ハマり方をしていたりする。彼女らには彼女らのステージやコミュニケーションがある。

ネイティブもその本質を常に変容させていると毎回思う。本当に使い方はそれぞれあって、そこにいろんな可能性やアイデアの余地があって面白くてたまらない。


この本で語られていた「デジタルネイティブ」は、むしろデジタルコミュニケーションネイティブと言い換えて問題ないと思う。実はコミュニケーションモバイルインターネットにより時間的空間的制約を超越したあと、今度は「機会的制約」の超越がはじまりつつある。ぼくらは「ソレ無し」ではあり得なかった出会いを体験することができる。そしてそんな中いろいろ面白くなっているのは「ソーシャルネットワーキングネイティブ」だったりするんじゃなかろーか。これはリアルが大きく関わるため比較的年齢層が高めに設定されてそう。
この本(2009年)ではソーシャルメディアの台頭と、ソーシャル中毒者について言及されていなかった。mixiのことは若干触れてあったけど、コミュニケーション常時接続性まで言っていたのでSNS上でのことも少し触れるかと思ったらそうでもなかった。

読んでいく中で、「結局、人間はさほど進化していない。」という一言がずいぶん突き刺さった。

スマートフォンが薄く大画面で高速で高画質多機能になるのは誰のためなんだろうか。

Webサービスが便利でクールで面白くなるのは何のためなんだろうか。

合理化や効率化の先には何があるんだろうか。


インターネットそれ自体は決して万能でもなければ全能でもない。

行き着く先がデジタル・クレバスのようなものでなければいいのだけど。
あんまりでじでじしすぎるのも考えものだなぁ。

 

以上、転載―――――――――――――

 

うーーん、どうだろう。いくつかの観点が出てきているので、各事項に対して頭をひねることはできるのだけど、病み上がりだしそういうのは飲み会とかでしたいから一旦はパスかなあ。

 

気になったところだけ。

 

「革命とは時間の短縮であり、空間の超越である」なんてことも言いながら、インターネットの出現について「コミュニケーションの革命」であるとする。
たしかにインターネットコミュニケーションメディアとして時間的空間的制約から大きく解放されている。殊にモバイルインターネットといわれている領域であれば、デバイスの携帯性もあって「いつでも・どこでも・だれとでも」を体現している。
しかしながらこの空間的時間的制約からの解放は同時に「常時接続性」を孕んでいて、良くも悪くもこれがコミュニケーションに大きな変化をもたらしたりもした。

 

そうだよね、そうだよね。LINEやTwitterfacebookInstagramなどのメディアとそのユーザー、特に若年層においては、利用シーンやモチベーションが自分の発想の斜め上をいってることが本当に増えてきた。全然若者じゃない、自分。

 

最近仕事絡みでもプライベートでも学生対象にヒアリングしててびっくりするのが、「Twitter複数アカウントは実は超一般的」とか、「Instagramは鍵垢かつ知り合いタグ付で投稿するのが主流」とか「LINEはグループトークが前提で、いわゆる個別メッセージは”こちゃ”と呼ばれている」とか、「今の大学生は入学前にTwitterのアカウントで先に繋がって入学してから垢バレする超デカいオフ会みたいになってる」とか。

これらは常時接続性が生み出したコミュニケーションモデルであることが多くて、たとえばTwitter複数アカウントは「フォロワー別(≒コミュニケーション文脈別)に使い分けてることが多い」んだそうだが、LINEや単一Twitterアカウントでは接続されすぎている、のでユーザー側でアカウントにおける情報の非対称性を活用してアウトプット対象のステージ分けをしてるのだそう。うへぇ~知らねえ。TwitterのAdとか結局どうするんが正解やねん。

 

というのも、検索というのは「生産」活動ではない。動画画像の視聴も消費であって、娯楽にはいいかもしれないが生業にはならない。その判断がつかないうちは便利すぎて危ないだろうと感じる。インターネットの全能感はシゲキが強すぎるんじゃなかろうか。もうすぐ大学を卒業する自分ですら時々恐ろしくなる。
むしろインターネットよりはインターフェースに触れさせたい。というのはまた別のハナシ。

 

ここに関してもそうだよねえ、って思った。やるな学生時代の俺。いまのおれよかキレキレとちゃうんか。

インターネットとの触れあい方って教育も絡めた方がいいし、そうなったときに”全能感にやられないようにする”ってすげー重要だと今でも思う。でもインターネット的な(というかVirtualな)インターフェースや合理性へのリテラシーは幼いうちからもっておいてほしい。

自分が父親だったらどういう教育にするかなあ。考え始めると超奥が深いし、超ちゃんとしてあげたい。あと絶賛母親候補は募集中。

 

ひとつ確実に言えるのは、インターネットを消費の入り口ではなく、生産の入り口として認識させたいな、とは思う。動画、テキスト、なんでもいい。生産的な環境や道具として利用させたいし、インターネットに影響されるのではなく、インターネットを通して世の中に影響を与える側の人に育ってほしい。自分もそうなりたい。

 

この辺は内田樹しぇんしぇーのこの本に影響を受けたかもしれない。

 

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

 

 

生産者的な生き方と、消費者的な生き方についてはこれを読んでその後常に意識していくようになったし、そもそもこれ自分の価値観を是正するとか子育てとかの観点でめっちゃくちゃ役に立つやん、って思った次第。

なぜ若いうちは不真面目がかっこいい、なのか。

「影響され、消費する人生」より、「生産し、影響する人生」を歩むべし、という本。

内田先生のコメントはさておき、「ああ、こういう視点あるなあ…」と素直に感心できる切り口が大変秀逸な本でした。学びが多かった。

 

そんな父親観の持ち主な私ですが、母親候補は依然として大絶賛募集中。

 

はい。

 

 

いま現在インターネットに居て感じるのは、「ここに書かれているのはあくまでデジタルネイティブ第一世代」ということ。下手したらプロトタイプかもしれない。試作品。
現役の女子高生なんかに話を聞いてみると、ぼくら(大学生)とはまた違った使い方・ハマり方をしていたりする。彼女らには彼女らのステージやコミュニケーションがある。

 

そうそう、これがたぶん一番言いたかったことや。(たぶん)

ネイティブって言うのはほぼイコール第一世代、であって、絶対的な価値観やモデルではないのである。マーケティングにはキャズムの理論があり、ここでいうネイティブが仮にアーリーアダプター相当のカテゴリだったとしても、影響力が最大化するキャズムを超える頃には、また別の属性や機能が付与されてたりする。ゴールデンに深夜番組を持ってこようとすると、内容がクソつまらなくマイルドになるのと一緒な感を受ける。

 

すんごいいきなりだけど、今中学生だったり高校生だったりする世代にコミュニケーションBotを企画させたら、いったいどんなアイデアになるのだろう。超面白そうだし、LINEのBotAPIは先行トライアルでGetできたから、どこかと組んでやってみようかな。

 

最近はちょっとビジネスっぽいマーケティングとか広告とかアドテクノロジーだとかに脳みそ割きすぎてたけど、本来はこういう思考実験が好きでやっぱりデジタルはやめられねえ、と感じるタイプ。だし、そういう仕事を今後もしていきたいなーっつって。

 

なんつって。